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H 西洋思想の移入
帝国主義段階に達した欧米先進諸国のアジア進出
近代(欧米)化と同時に民族的アイデンティティーの確立という課題
a 啓蒙運動
明六社による西洋近代思想の摂取と紹介
中村正直『自由の理』(JSミル)西周 西洋哲学の移入
森有礼・加藤弘之・津田真道
福沢諭吉 独立自尊の精神を強調 天賦人権説「天は人の上に・・・」
実学の尊重 一国の独立「一身独立して一国独立す」
「脱亜論」
b 自由民権運動
二つの潮流ーイギリス流穏健的民権思想(明六社ーJSミル・スペンサー)
フランス流急進的民権思想(中江兆民ールソー)
『三酔人経綸問答』恢復的民権と恩賜的民権
植木枝盛と田中正造
c キリスト教 プロテスタントの伝道
内村鑑三 二つのJに仕える
不敬事件 非戦論 無教会主義
新渡戸稲造と『武士道』・植村正久・新島襄
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神仏分離令と国家神道の形成
d 国粋主義の台頭
欧化主義・西洋崇拝(象徴としての鹿鳴館)への反発
近代的民族主義 三宅雪嶺『日本人』陸羯南『日本』
平民主義(平民的欧化主義)徳富蘇峰『国民の友』
西村茂樹『日本道徳論』→教育勅語(元田永孚)
岡倉天心
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◆明治維新と啓蒙思想
1868年明治維新によって江戸幕府が倒され、近代国家として出発しようとしたとき、すでに欧米諸国は市民革命をへて資本主義化を押し進め、帝国主義の段階に入っていました。欧米列強によるアジア進出の本格化という事態の前に、日本は欧米諸国にならい近代化政策を押し進めつつ、同時に西洋に対する日本の民族的アイデンティティーの確立を迫られたのでした。西洋的なるものと日本的なるものとのぶつかりあいという思想的な営みを通して近代日本の思想が形成されていったのです。
西洋近代思想の移入は森有礼の主唱で結成された「明六社」に集まった洋学者を中心とする啓蒙運動、つまり伝統的な権威や不合理な迷信・因習から人々を解放しようとする運動として始まりました。その中心的思想家で有り、最も影響力を持った人物が福沢諭吉でした。かれは「門閥制度は親の仇でござる」という述懐にみられるように、封建的な身分制度とそれを支えた儒教思想を批判しました。そのうえで、西洋文明を単なる技術的なものとうけとらず、政治・経済・社会を含むトータルなものとして受け止めました。「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と天賦人権説を唱え、「学問のすすめ」他の書物によって、国家が独立するまず基本として個人が独立することの重要性や実学(地理、物理経済学など)の必要を説いて、多くの人々に影響を与えました。福沢の日本独立の主張はのちに「脱亜論」(1885年、植民地主義の翻弄される緊迫したアジアの情勢下で、日本は主権国家の形成を目指し、清国や李氏朝鮮など自由・独立の気風が未熟な東洋の悪友を謝絶し、西洋的国家システムへの参入ー脱亜入欧を呼びかけた)という主張になっていきます。
「明六社」では他にも中村正直や加藤弘之、津田真道などが『明六雑誌』によって活躍しました。多くの書物や思想が紹介され、哲学の分野では、西周がphilosophyを哲学と訳出したのを始め様々な訳語を定着させます。それは単なる日本語によるいいかえではなく西洋の概念や思想そのものを日本に根づかせる作業であったといえましょう。
◆自由民権運動
明治の10年代となると政府の藩閥専制化・中央集権化に反対し、国会開設・憲法制定など政治的自由を要求する運動が高まりました。自由民権運動です。この運動をすすめる理論として二つの流れがあり、その一つは明六社を中心としたイギリス系の比較的穏健な民権思想に基づく流れであり、もう一方がルソーに代表される急進的なフランス啓蒙思想による流れです。後者は中江兆民や植木枝盛によって主張され、主権在民を強調、政府に対する人民の抵抗権を認め、きびしい政府との対決姿勢を打ち出したものでした。
中江兆民は『三酔人経綸問答』の中で、民主主義の即時実現を主張する「洋学紳士君」とアジア侵略を求める「東洋豪傑君」、両者の間に立つ「南海先生」という三者に日本の困難な進路について議論をさせています。そして上から与えられる「恩賜的民権」を時間をかけて民衆自身の「恢復的民権」に育て上げていくことを主張しています。またこの自由民権運動からは足尾銅山鉱毒事件の解決に一生をかけた田中正造のような人物も現れました。
◆宗教をめぐって
1873年、キリスト教の禁止が解かれると、欧米諸国の宣教師たちは活発な布教活動を開始しました。ことにプロテスタンティズムは西洋近代の啓蒙思想の一つとして受け入れられ、新島襄、内村鑑三、植村正久、新渡戸稲造らキリスト者が育っていきました。
特に内村鑑三は西洋文明の進歩の根本にキリスト教を見出し、維新後の日本の取るべき道をそこに認めました。鑑三は「武士道に接ぎ木されたキリスト教」を日本に定着させることを願い、そこからただ愛すべきは二つのJ(日本とイエス)であるという姿勢をとり、無教会主義を唱えました。又、彼は『万朝報』によって足尾銅山鉱毒事件に関わり、また日露戦争にあたっては非戦論を唱えました。一方従来の宗教においては、明治政府の復古的側面が神仏分離令・国家神道の形成というかたちをとったため、廃仏毀釈が起こりました。そのような中で島地黙雷や清沢満之の仏教の革新運動もおこったのです。
◆国粋主義の台頭
明治政府の急速な文明開化、特に鹿鳴館に代表されるような急激な欧化政策や皮相な西洋崇拝の風潮に対して日本固有の精神的物質的長所を発見し、その維持と発展をはかることによって国家の独立自尊を全うしようとする主張が高まってきました。教育の分野では伝統的な儒教精神に基づく忠と孝を基本とする国民道徳の称揚が叫ばれ教育勅語が定められました。しかし、このような国粋主義の主張も近代的民族主義を説く三宅雪嶺、陸羯南や、平民的欧化主義を説く徳富蘇峰など様々であったが、次第に拝外的要素と国家至上主義的様要素が強大となって変質し、昭和にはいると北一輝によって理論化されるような超国家主義と結びつくようになります。
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I 近代日本思想の誕生
a 近代的自我の芽生え(文学を通して近代的自我を確立)
@ 北村透谷・島崎藤村・与謝野晶子・石川啄木
A 森鴎外 軍人であることと文学者であることー自我と世間の衝突
諦念と歴史文学
B 夏目漱石 イギリス留学体験 日本の近代化についての思索
自己本位の生き方から則天去私へ
b 西田幾太郎
純粋経験から自己の確立へ
絶対無という場所の論理ー背景としての禅体験
c 和辻哲郎
人間の学としての論理学
間柄的存在ー背景としての儒学
d 社会主義思想
キリスト教的人道主義から(片山潜、安部磯雄)
急進的自由民権思想から(幸徳秋水、堺利彦)
e 大正デモクラシーと新しい思想運動
白樺派(理想主義・人道主義)
女性解放運動(平塚雷鳥と与謝野晶子)
部落解放運動
民本主義(吉野作造)
f 民俗学の思想
柳田国男・南方熊楠・折口信夫
常民の慣習・信仰・伝統の中に日本精神を見る
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◆近代的自我の確立
明治維新当時すでに成人であった福沢諭吉や中江兆民が近代国家形成の必然として自覚的に西洋思想を受け入れ啓蒙に力を尽くしたのに対し、明治国家の黎明期に自己形成を遂げた人々は、変革期の現実矛盾の中で個としての自己を内面において支える近代的自我を確立することに格闘しました。北村透谷は自己の内面的要求を「内部生命」の表現としての文学に求め、与謝野晶子は短歌において自己の情感や官能を大胆に歌いあげました。同じく明星派の生活詩から出発した石川啄木は『時代閉塞の現状』を書き、次第に社会主義に傾斜していきました。特に、現実生活では陸軍の高官として明治政府に仕えながらその文学を作り出していった森鴎外とイギリスに留学することによってなおさら日本の近代化のあり方に対し考察を深め、自己の生き方を問い続けた夏目漱石はその代表といえるでしょう。
◆夏目漱石
夏目漱石は、明治の社会のゆがみはどこから来るのか、日本の近代化のゆがみの原因は何かと問い、その答えを「西洋の開化は内発的で、日本の開化は外発的である」というところに求めました。しかし彼は日本の文明開化が内発的なものであり得たとは思っていませんでした。彼自身もイギリス文学を学ぶことによって自己の文学を打ち立てざるを得なかったのであり、今まで内発的に発展してきた国が、外から無理矢理押しつけられその言うことを聞かねばならなくなったこと、そうせざるを得なかったことがまさに近代日本の悲劇の原因と考えた漱石は、それを乗り越える道を自らの文学において探したのです。では出発点としていったい自我をどのように確立するのか、漱石はロンドン留学中にこの課題にぶつかりました。そして異国の地でひとり、自分と格闘し到達したのが「自己本位」ということでした。伝統など一切の他への依存を廃し、内的な自己の主体性を追求しその自己に拠って生きること、漱石はこのような自己本位の立場、個人主義に立ったのでした。
しかしそれは自然主義のような自己の自然的欲求の安易な肯定でも、他者は顧みないというエゴイズムでもありません。「自己本位」を打ち立てた漱石は、どこまでも自己本位でありながら、他との関係をどう立てていくのかに悩みます。自己本位であるからこそ、お互いの自我も全く同様に大切であるということ、醜いとみていた人たちもいったん自己の価値基準を捨ててみると、みなそれなりに内部の必然を持っていくことに気づくのです。そうして漱石はその文学の中でそれぞれの人物を内部から描き分ける方法を確立していきます。そして到達した、自己本位でありながらエゴイズムを超える道が「則天去私」ということだったのです。
◆近代日本における哲学の誕生
明治の初めから西洋哲学の輸入・模倣に終始した日本の哲学において、初めて独創的な体系を持った哲学体系が西田幾太郎によって作り出されます。かれは西洋哲学で前提とされている主観と客観という対立を克服するものとして東洋の無の概念をおき、これを「絶対無」として論理化・体系化させました。西洋の合理主義と日本の思想的土壌に通路をつけようとした彼の思索は当時広く知識人に受け入れられ多くの後進を生んだ。西田が禅の体験を通じて独自の哲学をつくりだしたのに対し、儒教をはじめ東洋の伝統文化に基づきながら、独立した自我から出発する西洋哲学を批判し、個人と社会との調和をめざす倫理学の構築につとめたのが和辻哲郎でした。
◆政治思想の成熟
日清戦争以後日本の資本主義は急速に発展したが、それにつれて労働問題など様々な社会的矛盾が表面化してきました。こうした中で社会主義の思想と運動が人々の関心を呼ぶようになるのですが、明治の社会主義には片山潜や安部磯雄などのキリスト教人道主義から出発した流れと中江兆民の自由民権論の流れをくむ幸徳秋水や堺利彦らの社会主義があります。こうした明治の社会主義運動は大逆事件に象徴される政府の弾圧により一時衰退しましたが、第一次大戦前後になると多様な分野で人間の個性を尊重し、自由・平等を重んじる傾向が現れてきます。社会の民主的改革を要求するこうした社会思潮を大正デモクラシーとよびます。
その思想的代表者は民本主義を唱えた政治学者吉野作造ですが、平塚雷鳥らの女性解放運動や水平社設立に象徴される部落解放運動や武者小路実篤らの白樺派の運動、もこれに呼応したものです。また東北にあって法華信仰を核に農民とともに歩み詩と童話をつくった宮沢賢治のような人物も出ました。大正デモクラシーの大勢は対外的には政府の朝鮮・中国への侵略政策を支持するという限界をもっていました、小日本主義を唱えた石橋湛山や朝鮮工芸の美への開眼から日本の朝鮮支配の不条理を訴えた柳宗悦のように、日本の対外侵略に対し異を唱えた人物も現れました。
◆昭和初期の思想
昭和にはいると西洋近代の思想のあり方やその方法に対する懐疑が出され、独創的な思想が生まれてきました。柳田国男は本当の日本文化・精神を形成してきたのは大多数の普通の人々、無名の人々であるとしてそれら常民の信仰や伝説・行事などに思想をとらえる民俗学を創設し、柳田とともに折口信夫や南方熊楠も広い領域にわたって業績を残しました。一方では、国家をすべてに優先させる超国家主義が北一輝らによって唱えられ、軍国主義が勢いを増しファシズム化が進行すると、学問・思想の自由への弾圧が始まりました。社会主義・共産主義への弾圧はやがて自由主義・民主主義にも広げられ、言論統制は隅々まで強化されました。
◆現代の思想的状況
廃虚の中から戦後は始まりました。新憲法が制定され日本の進むべき道が示されました。戦後50年が経過しましたが、自我の確立や日本という国家のアイデンティティの、西洋近代思想の受容といった問題は根本的にまだ解決されていないといえるでしょう。
◇日本文化の形成
以上のように日本思想の展開についてみてきますと、日本の思想・文化(明治以前は中国・朝鮮、それ以後は欧米諸国)が外国の大きな影響のもとに成立してきたことがわかります。しかしその影響は常に一様のものとしてもたらされてきたわけではありません。大和朝廷の成立以前について特に朝鮮との関係がどのようなものであったのかは明かではありませんが、中国や朝鮮から非常に多くのものを取り入れて、日本が国家を形成して以来、日本は大きく外国に国を開き積極的にその思想、文物をとり入れようとする時期と、国を閉じ取り入れた文化を消化熟成する時期とが交互に来ていること、いわば国として外向的な時期と内向的な時期が交互に現れてきたということがいえると思います。
国家形成から平安初期までの時代は中国の大きな影響のもとにありました。中国の律令制を取り入れ国家体制が作り上げられ、仏教・儒教が取り入れられましたし、あまり明らかになっていませんが老荘や道教の影響もありました。それが平安中期になると諸外国との直接的な交流は少なくなり、文化の国風化が進みました。かな文字の成立などはそのさいたるものでしょう。貴族の教養も漢詩から和歌に変わっていきます。うちに閉じた時代が続いて矛盾が蓄積され、新しい体制が模索されるとそのための原理や思想が外国に求められることになります。前夜・浄土に代表される鎌倉仏教や朱子学などが新しく中国からもたらされます。しかし一方で日本独自の思想、外国のものではなく日本というアイデンティティを証明してくれるような思想が求められることになります。神道の理論化の動きや江戸時代の国学のうごきはそれに答えた動きでしょう。
そして明治、今までの中国とは大きく異なった欧米文化の圧倒的な影響で国家を作りあげることが要請されます。従来の文化とは異質な西洋思想の流入に対し、その反発も大きな形で起こってきます。そして現在、明治と第二次大戦後という二度に渡る大きな思想的影響に対して私たちはそれを受け止め消化しきることができているとはいえないような気がします。明治の思想家はそのもとで苦闘したのですが、昨今の歴史教科書をめぐる動きなどをみても現在の私たちもまたその問題を解決したとはいえないのです。