今週の授業

4月第2週  




   第1章 自己への問い

 
A 私とは何か

 a 自分であることの不安
   自分がどういう存在なんか(自己了解)
   ↑↓ (揺れ)
   外側から「おまえは〜だ」という規定(社会的規定)

  ・しかし自分のことはよくわからない
    「各人にとってはじぶん自身がもっとも遠い者である」(ニーチェ)
  ・思想史的にいえば
    「私は私自身がつくり出すもの」近代社会の原理ーベンサム

  不安定な自分の輪郭を補強する営みが続けられるー不確かな自己像
   「ジョハリの窓」

 b アイデンティティ (エリクソン)ー自己同一性
  ┌時間的な一貫性(生まれてから現在まで)
  └多様な役割の統合(⇔社会的認知)

  「自分は何ものであるか、自分はどこにどう立ち、これからどういう
   役割と目標に向かって歩いていこうとするのか」

 c 社会的関係の中での自己
   自己の意味の確認
   恋愛と仕事 ←しかし困難が(携帯電話的関係とヤマアラシのジレンマ)

    レイン『自己と他者』 「補完性」
     すべての人間は、子どもであれ大人であれ、意味、すなわち
     他人の世界に中での場所を必要としている
    ラカンー人間は他者を鏡として生きる

 



◆「私とは何か」という問い

 いったい私とは何なのだろうとあらためて問うとどうもはっきりしない、私とはこのような存在で、何のために生まれ、今何を目標に生きていると理路整然と説明できる人がいたとしたら、まして、それが君たちと同じ年代の人間であったら、どうもそれはとても胡散臭い人間に思える。自分とはこういう人間だと人に説明するのはとても難しい。
 しかし、一方私という人間を、こんな人間だと了解してつきあってくれている親や恋人や友人がいる。彼や彼女らが私と理解していてくれる私は、私が思っている私と同じなのだろうか。何かの時に、テープか何かに吹き込んだ自分の声を聞くということがあるが、真っ先に感じるのはひどい違和感だ。「これは自分ではない」。私は自分自身をちょっと距離を置いて客観的にみるということができない、心理的にもだが、物理的にも無理だ。もし、自分の裸を後ろから写した写真を見たとしたら、とても不思議な感じになるだろう。 ニーチェが言っているように「各人にとってはじぶん自身がもっとも遠い者である」。自分のことは自分が一番よく知っているはずだと思うのだが、一度考え始めるととても不安になってくる。この不安は一生の間に何度も襲うことになる。私自身今年50歳になったのだが、今までの人生は何だったのだろう、このままでいいのだろうか。本当にやりたいことがあるのではという不安に襲われる。人間はこのような不安をいつまでも背負い続けるのだろうか。


◆近代市民社会と自己の不安

 近代市民社会とは、ベンサムの言葉ですが、「あらゆる人を1として考え、1以上にも1以下にも考えない社会」というものです。これは人の価値は、その人が生涯の中で何を生み出していくか、どのような価値を実現していくかにかかっているのであって、そのひとがどういう場所に生まれたか、誰の子どもであったとかどういう階層に生まれた、どの地域にどういう性に生まれたかということであらかじめ決まっているのではなくて、スタートラインは一緒なのだ、みんな1以上でもなく、1以下でもない。その人が生きた意味とはみんなと同じスタートラインに立って、そこから一人の人間が何を生み出していったのか、どういうことをやったのか何を成し遂げるたかによって決まるのだと、そういう理念のもとに作られた社会です。そういう理念に立って私たちは200年前に出発したわけです。もちろんこれは理念であって、そこに今もまだ近づこう、ちかづこうとしているのです。現に性の違い、男性も女性も同じ1票というところまでには100年がかかりました。
理念としては、出自によって差別されないということになるのですから、個人の自由ということが中心になってきたのですが、言い換えると、可能的にはあらゆる職業が自分の前に開けている、家族を構成するときに、潜在的にはあらゆる人がパートナーとして開かれているということを意味しています。以前の社会では職業は生まれたときにだいたい決まっていましたし、結婚する相手もどういう地域のどういう階層の人かだいたい決まっていて、自分は誰なのかと考える人は哲学者以外あまりいなかったのです。問わなくても人生は見えていたし、それ以外の可能性というものは現実的にはほとんど開かれていなかった。
ところがこの表現の自由、職業選択の自由、結婚の自由そういうものが理念として開かれてきますと、個人は自分の意志で何にでもなりうる存在となります。そして可能的には何にでもなりうるという社会を私たちは今も、目指しているのですが。これは逆に言うと自分が自分であるために理由が必要になった時代になったということ。つまり、自分の人生というものを自分の意志でデザインすること、自己決定といわれますが、要するに個人が自分のライフというものを自分でデザインするということは、裏返しにいうと、自分が今こういう人間であることの理由が必要だということです。その理由がうまく見いだせないと非常に不安になる。自分がこの職業に就いていることに理由が、あるいはこの人と家庭を持ったことに理由がうまく見つからないとき、感じられないときには、私たちは「自分とはいったい何なんだろう」という問を発せざるをえない時代になったということです。
              (鷲田清一氏講演より)

◆衣服は自己像を補強する試み?

 ここにいるみんなは制服を着ています。しかし全くみんなが一緒の格好をしているかというとそうではない。髪を染めている人もいれば、ピアスをしている人、きっちりお化粧をしている人もいる。スカートの丈をいじっている人もいるし、制服に入らないソックスは人それぞれです。服装をみればその人がわかるというが、「なぜ人は服を着るのか」「いつから自分で服を着たか」と問うてみると私とは何かという問いと重なることがわかる。

 哲学者の鷲田清一さんが『ひとはなぜ服を着るのか』という著書の中で、自分という存在と衣服との関係についてこんなことを言っています。
「衣服という皮膚という言い方がなされます。衣服は肉体を守るためのものと考えられがちですが、それだけでしょうか。中国での纏足や、ヨーロッパのコルセット、現代のピヤスなどの肉体を傷つける習慣をみると、自然のままの肉体を守るということが衣服の目的とは言い切れないようです。考えてみると僕たちは自分自身の肉体について持っている情報はとても貧弱です。どうも私たちは自分自身の身体、言い換えれば私の輪郭を補強する技法としてファッションが用いられるのではないでしょうか」
「衣服には社会的な記号としての働きがあります。ロラン・バルトはファッションは「わたしとはだれか」という問いと戯れているといっています。わたしはだれか?男性か女性か、大人か子どもか、どんな職業に就いているか、オフはどんな生活をしているか、どんな性格か・・・。性別、職業、年齢、ライフスタイルこれらへの問いのすべてとファッションは関わっている。親に着せられるのではなく、自ら服を選びとるようになるのは「私とは何なのだろう」という問いを始めたときからなのです」

さらにコム=デ=ギャルソンのデザイナー川久保玲さんについて
「川久保玲の作る服について、ある三十代の女性が次のように語るのを聞いたこともあります。「じぶんが川久保玲の服に出会った80年代のはじめというのは、デパートに行っても洋服屋さんに行っても、エレガントでしとやかな服もセクシ−な服も着たくなく、お嬢さんらしい清楚な服もカワイイ服も蓮っ葉のイカレタ服も着たくないじぶんのような人間が、これ着たいな、と自然に言える服など、(両手を広げて)これくらいのうち(両手を触れるばかりに合わせて)これくらいしかなかった。そのなかに川久保冷の服があった」と言うのです。それは女性にとって、女としても娘としても少女としてもじぶんを意識しないで、ただのじぶんでいられる服だったと言うのでした。
 川久保玲の服は、いわゆる上等の服、きれいな服、セクシーな服とはぜんぜん違います。イメージとしては、ある意味でこれらの対極にある服です。つまり、つぎはぎやほつれがめだったり、だぶだぶだったりしわくちゃだったり、労働着か黒い喪服のような服だったり、色気のない無愛想な服だったりと、かなりつっぱった服です。しかも、素材にも相当な工夫をしているので、値も張ります。にもかかわらず、女性たちにこれほど支持されてきたのはどうしてでしょうか。女性たちに食べるものに不自由してもこれを着てたらしっかりと生きていけるとまで言わせる秘密はどこにあるのでしょうか。
 品定めするようなねっとりとした異性の視線の包囲を押し返して、あるいは異性のまなざしの対象としてじぶんの外見をあらかじめチェックするような自己意識の惰性から解き放たれて、女性がじぶんの存在感覚を、あるいはセクシュアリティの意識をそのままに表現できるような回路を開いてくれる服、あるいは女性というようひとりの〈個〉として地をしっかりと踏みしめて歩けるような生き方を支えてくれる服……川久保の作る服は、どうもそのような服として若い女性たちに受けとめられてきたようです。
 ノーメイクの女性と顰蹙もののメイクをする女性のその両方に、「口紅を唇につけなければならない埋由なんてない」という応援のメッセージを送りつづけてきた川久保玲、そして「にこにこしないで、踊らないで、ただふつうに道を歩くように歩くこと」をモデルに要求してきた川久保玲、そんな彼女の服は、女性たちを「人形」であることから解き放つ服として受け入れられました。そして、その声は男性にも届きました。アイロンがかかっていなくてもいい、サイズがあっていなくていい、しわくちゃでもいい、「男らしく」なくていい、胸を張って生きなくてもいい、もっとふてくされても、もっと跳ねてもいい……そんな声となってずしんと響いたのでした」

◆自分を知ることージョハリの窓

 思ったよりも自分が自分自身について知っていることは少ないかもしれませんし、自分が知らない自分も存在しているかもしれません。
ジョハリの窓(ジョー・ルフト、ハリー・イングラム発案 1966)という考えがあります。
人間には次のような4つの窓がある、自分には4つの領域があるというものです。
        

 A   B
 C   D

               A.開放領域(自分も他人も知っている自分)

               B.盲点の領域(自分は知らないが、他人は知っている自分)

               C.隠している領域(自分は知っているが、他人は知らない自分)

              D.未知の領域(自分も他人も知らない自分)

 おそらく「いったい私とは何なのだろう」と人は問う存在なのだろう。そして了解できる解答を得よう苦しむ時期が誰にでもあるのだろう。人によっては、まわりが与えてくれる答えでは納得できない人もいる。逆にすんなり受け入れてしまう人もいるのだろう。でもそうした問をたてることは決して無駄なことではないと思うのです。

◆アイデンティティー

 他者の視線と自己意識の中で自分自身を見つけ出す、あるいは作り出していかなければならない。そのような自分自身であるという意識、それををエリクソンはアイデンティティーといいました。椎名林檎の歌にその題名も『アイデンティティー』というものがあります。
 是迄多くの眼がちやほやとひたすらあたしを肯定した
  様々な合図でてきぱきと姿を見破らなくちゃあならない
  優れていて劣っていて 数だとか、レヴェルとか
  此処に居れば良いのですか
  誰が真実なのですか
  お金が欲しいのですか
  私は誰ですか

 アイデンテイティ(Identity)とはふつう自我同一性と訳されます。同一であること、同一性、主体性などという意味で使われますが、性的アイデンティティとか民族的アイデンティティなどという使い方からもわかるように、自分が何ものであるかを自分自身で納得するといったニュアンスを持っています。身分証明書のことを英語ではidentity card lDといいますね。
 例えば山田さんのことを考えてみましょう。山田さんは、学校においてはバレー部の部長です。また、Aさんの友人であり、生徒会長でもあります。また一方で、Bくんの恋人でもあります。家庭では山田家の長女であり、近所では山田さん宅の娘さんとなります。それぞれの場面での山田さんは同一の人物ですが、微妙に違っています。例えば教師である僕と話している山田さんと恋人のBくんと話している山田さんとでは別人物であるといってもいいほどです。また誰も知らない夜のミナミを徘徊する山田さんがいるかも知れません。しかしさらに、ややこしいのは、自分ではこんな人間だと山田さんは自分で思っているでしょうが、周囲の人の見方とはとても違っているかもしれません。あるいは、自分はこういう人間でありたいと思っているのに現実の自分は違うといった場合もあるかもしれません。いったいどれが本当の自分なのでしょう。
エリクソンは、このような多様でありながらも、さまざまな自己を統一する何か核になるものをアイデンティティと名付け、アイデンティティを確立するとは「自分は何ものであるか、自分はどこにどう立ち、これからどういう役割と目標に向かって歩いていこうとするのか」をつかむことだといったのです。
 でも本当の自分というものはどこにあるのでしょうか、本当の自分はこれだと思っていても周囲が全くそうだと認めてくれなかったらどんな気持ちになるでしょうか。本当の自分を実感するというのはどういうことなのせしょうか。時々、周囲の色にとても敏感に皮膚の色を変え続けるカメレオンが気がついたら本当の皮膚の色は何色だったか分からなくなっていたというような気持ちになってしまいます。


◆恋愛と仕事、自分の生の意味を明らかにするもの
 
 自己の存在意味ということを考えるとき、恋愛が大きな意味を持つと言うことは、過去の文学作品や、今流行っている歌の歌詞を思い出してみれば容易にわかるでしょう。自分の存在の意味を考えるとき、「君が側にいて欲しい」と言ってくれれば、それが私の一番の存在証明、「かけがえのない証明」になることはおわかりでしょう。三人称の人々に囲まれているのと、二人称の関係にいるのでは決定的な違いがあるのです。もちろんここで二人称的な関係として一番に恋愛をあげましたが、男女の恋愛関係でなければならないというわけではありません。又、存在意味の確立という点では仕事というものが考えられます。いま私たちはつい「私らしさのでる仕事」「私しかできない仕事」を求めてしまうのですが、実際の仕事の意味は私の内部からでてくるものではなく、常にその対象となるべき人から与えられるものです。一番いい例が、この私の教師という仕事は、私がどんなに「僕は教師だ」と叫んだとしてもだれも僕の声に耳を傾けてくれなければ教師ではあり得ないのです。

◆携帯電話的関係とヤマアラシのジレンマ

 恋愛が、アイデンティティの確立の一歩になると言いましたが、実際はそのような二人称の関係になれない、という人が増えているようです。携帯電話が爆発的に若い人の間に広がりました。今まで場所に束縛されていたコミュニケーションを、個を単位にどのようなところにおいてもつながることができるようにしたという画期的な側面はもちろんあるのですが、携帯電話は今の若い人たちがおかれている人間関係の状況をよく現しているのではないかとおもいます。寒さに震える二匹のヤマアラシが、暖め合いたいと近づこうとしてもお互いのもつ鋭い張りによって傷つけ合ってしまうヤマアラシのジレンマのような状態にいまの若い人たちはいるのではないかという気がします。

◆社会的な自己

 イギリスの精神分析学者レインは、「補完性」という言葉で、他者との関係の上に立ったアイデンティティを説明しています。彼は、「女性は、子供がなくては母親になれない。彼女は、自分に母親のアイデンティティを与えるためには、子供を必要にする。…<アイデンティティ>にはすべて、他者が必要である。誰か他者との関係において、また、関係を通して、自己というアイデンティティーは現実化されるのである」といっています。私という存在は、他者の存在とその承認によって、補われ、完成させられる存在なのですね。自己と他者の関係は独立した別個のものではなく補完性に依っているということでしょう。しかし、そうすると、私が私であることの証明が私だけではできないということになります。それが私とはと問うとき不安を覚える最も大きな原因なのでしょうか。


◆ラカン(1901〜1981)の鏡像段階
 
 フロイト派の精神分析学者ラカンは、人間が生物学的な存在つまりヒトから社会的存在である人間に変化する決定的な契機として「鏡像段階」を考えました。人が他の動物と決定的に異なるのは非常に未熟な状態で生まれてきて、そしてその未熟な段階(自分一人では生きられない状態)がとても長く続くと言うことです。「鏡像段階」とは生後6ヶ月〜18ヶ月の幼児が鏡を見て、そこに映し出された姿を自分だと気づく時期のことです。幼児は最初鏡に映し出された姿を自分の姿だとは気づきません。写った姿に統一された自己イメージを形成するようになるのがこの時期だとラカンは言うのです。結局人間は、他者を鏡として自己を形成していく、人間の欲望も理想も他者を鏡として作り出されていくのです。






   B 大人か子どもか

  a 子どもから大人ヘ
    肉体的変化ー第二次性徴
    精神的な自立の動きー心理的離乳(ホリングワース)
    社会的存在としての誕生ー第二の誕生(ルソー)
     男として・女としての誕生
     (自己形成に大きな影響を与えるセクシャリティー)

    マージナル=マン(レヴィン)ー若者文化(ユースカルテャー)
 
    自己形成を促す社会的仕組み(装置)ー通過儀礼
    
  
  b モラトリアムの時期(エリクソンの古典的定義)
    自意識の発達・自他関係の発生
    
   ◆現代における青年期の特徴
     「モラトリアム人間」(小此木敬吾)
     「ピーターパン・シンドローム」
     「青い鳥症候群」「パラサイトシングル」

   ◆モラトリアム期延長の社会的条件が存在
     終わりなき自己探求の過程

  c 発達段階と欲求
     エリクソンの発達段階論
     マズローの欲求の階層


 

「私とは何か」と問う時期、このような時期を思春期といいましたが、心理学という学問ではこの時期について色々な定義付けがされています。少しあげてみましょう。

◆ 第二次性徴と青年期

 この時期は体つきの男らしさ、女らしさという身体上の変化を契機として精神上の変化が現れます。第二次性徴が現れる青年期は身体が自己主張する時期ととらえることができます。特に女性にとってのほうがその劇的な変化を受け入れるということが深刻なものになることがある。女性にとって大人になるということはまず女としての性を受け入れながらなおかつ人間としての自分を形成させなければならないからだろうと思われます。

◎女の子は女装することによって女になる?   大和和紀『あい色神話』より
  家まで歩いて十五分、走って十分一
  なんだかてれてれ歩くのかったるい一
  子どものころはよく走ってたっけ
  おつかいいくのや学校への道…
  いつからだろう
  あまり走ることをしなくなったのは…
  女の子待有の小走りしかしなくなったのは一
  あのころのように軽く足はあがるだろうか
  耳のそばで鳴る風の音をきけるだろうか
  身体を空気のように感じることができるだろうか

◆ 第二の誕生・マージナル=マン

 この青年期を、フランスの哲学者ルソーは、男として、女として人生を歩み出す出発点として「第二の誕生」と表現しました。またドイツの心理学者レヴィンは、青年期にある若者を、子どもから大人への過渡的な存在「もはや」子どもではなく、かといって「いまだ」大人ともいえない不安定な状態・位置にあるとして、マージナル=マン(境界人・周辺人)と表現しています。

◆ 青年期という時期の歴史性

 歴史家アリエスによれば中世ヨーロッパでは子どもは7歳くらいになると大人の仲間入りし、仕事や遊びの中で直接人生を学んだといいます。つまり中世までは子どもとは小さな大人であって、現代のような「こども」が成立したのは近代以降のことなのです。産業社会では高度の知識と技術が必要とされることから教育制度の確立が必要となり、その中で子どもから大人への過渡期である青年期が浮かび上がってきたと考えられます。近代以前の社会では、個人が人生の中である段階から他の段階へ移行するとき、それを可能にするため社会的儀式を用意していることが多く、このような儀式を通過儀礼(イニシエーション)といいます。例えば日本では元服という儀式を通過することによって、子どもが大人として認められることになりました。今遊園地なんかにあるバンジージャンプももともとは、南太平洋のバヌアツ島の儀式で、それを体験することによって大人になったことを共同体の中で認めるという、このような装置の一つだったのですね。現在このような通過儀礼が社会的に位置づけられなくなってきているため、青年期の数年間が大人への準備期間として、自分を未決定の状態においておくことを許される期間となっているともいえるでしょうし、逆に明確に大人になりきれないでいるのだと思われます。

◆ 現代における青年期の特徴

 アメリカの精神分析学者工リクソンはライフサイクルにおける青年期の延長を説明する際にモラトリアム(本来、支払猶予という意味の経済用語)という語を使用しています。彼は,青年が自己を確立するまでの数年間は大人への準備期間として心理的にも社会的にも責任を免除され,試行錯誤的に様々な司能性にチャレンジする期間とした。社会の側がそのような余裕を青年に提供するわけですが,最終的には青年が社会的責任をはたせる大人となることを前提としているわけです。エリクソンはこのモラトリアムという語を肯定的に使っているのですが、最近では、大人になれないという意味で否定的に使われることもあります。

◇ モラトリアム人間 

 モラトリアムという語を使って、日本の精神分析学者小此木啓吾が1970年代以降の日本の若者たちの大人になろうとしない傾向を、その著書『モラトリアム人間の時代』において以下のように指摘しました。
 「このような若者たち(のちには若者に限らずすべての階層に共通するとした)の特徴としてつぎの五つがあげられる。@「お客様」意識をもち続けていつまでも社会に対して責任をとろうとしない。A将来の自分の可能性をつねに留保しておくために,特定の組織や集団にかかわることをさける。Bアイデンティティの確立に際してさけられないはずの「あれか,これか」といった選択をさけて「あれも,これも」と欲ばるため,具体的な出来事に対して確固とした対応ができない。C社会によって責任を猫予されているという意識が薄く,あたかも権利であるかのように自己のおかれた立場を正当化する。D友人関係においても,社会に対しても一時的にしかかかわらない。彼らにとって、現在の自分は「仮のもの」であって「本当の自分」は常に未来のものとして大切に保存されているのである」

◇ ピーターパン=シンドローム

 これはアメリカの精神分析学者ダン=カイリーの著『ピーターパン=シンドロームー大人になれない男たちー』によって一般化された言葉です。永遠に大人にならないネバーランドに住むピーターパンからとられたこの言葉は、日本では既成の大人社会になじもうとせず、個を守ろうとする若者をさすことが多いようです。

 このようなモラトリアム的傾向は、日本だけではなく先進国であれば共通に見られる傾向です。それは若者に大人になることを猶予させられるような社会的条件が存在するということでもあります。しかし、日本はその傾向が欧米諸国より強いといわれています。ある社会学者は、学校を出て社会人となり、フリーターなりあるいは就職したとしても、親と同居し基本的な生活については親に依存し自らの収入は自分の趣味等に使うといった若者たち「パラサイト・シングル」と呼んでいます。

◆発達段階・ライフサイクル論

発達段階説
 「発達がどう進んでいくか」を捉えることについては、2つの見方があります。1つは発達は連続的に進んでいくものだとする見方で、もう1つは発達は段階的に進んでいくものだとする見方です。発達が連続的に進んでいくものと主張した代表的な人は条件づけの研究で有名なスキナーですが、彼は条件づけられた行動が蓄積されることの積み重ねが発達だと考えました。
 それとは違って、発達段階説を唱えたS.フロイトとE.H.エリクソン、J.ピアジェらは、発達は人間の内部に自然に生じる成熟によって、ある時期に飛躍的にその質的な変化が起こるのだとし、段階的に変化するものだと捉えています。つまり、発達段階説とは 「発達はある力を獲得すると飛躍的に変容する階段状の傾斜を上るようなものだ」とする考え方なのです。
 一口に発達段階説と言っても、発達の段階の分け方には様々な考え方があります。普通一般では、基本的に0歳から1歳くらいまでを乳児期、1歳から6歳までを幼児期、6歳から12歳までを児童期、12歳から20歳までを青年期と呼び、それ以降は成人期、中年期(壮年期)、老年期と進むものだと思います(たぶん)。このような分け方は社会的な基準による発達段階と言えます。心理学的にもいくつかの基準があって、身体的基準、精神的基準(精神機能、精神構造、精神分析)によって発達の段階を捉えています。

このうち、精神分析的基準による発達段階説を唱えたのは、S.フロイトとE.H.エリクソンです。まずフロイトが以下のように発達を段階的に捉えました。

◇<フロイトの発達段階説>
 口唇期(Oral Stage):0〜1.5歳  肛門期(Anal Stage):1.5〜3歳
男根期(Phallic Stage):3〜6.5歳  潜伏期(Latency Period):6.5〜11.5歳
性器期(Genital Phase):11.5歳以降

これはフロイトが自身の臨床経験から、ヒステリーの発生には幼児期の性的な外傷体験(大人からの性的な誘惑や去勢不安など。実際のものだけでなく、フロイトが心的現実と呼ぶ、実際には性的な外傷体験を受けていないにも拘わらず受けたように記憶されているものも含みます)が大きく関わっていると考え、リビドーと呼ばれる性本能の発達によって人間の精神的な発達を捉えようとして考え出されたものです。そしてその後、エリクソンはこのフロイトの発達段階説を発展させました。エリクソン以前は、人の発達は成人するまでの積極的な変化過程として捉えられていました。そのため、発達段階説も成人するまでの段階について論じたものが多いのですが、エリクソンは人が生まれてから年老い、寿命を迎えるまでの過程を8つの段階に分けて生涯発達という観点を示し、さらにそれぞれの段階に優位になる自我の特質でもあり、心理的・社会的に危機となるものがあると考えました。

◇<エリクソンの発達段階説>
発達段階 心理・社会的危機
  乳児期   基本的信頼 対 基本的不信感
幼児前期(早期幼児期) 自律性 対 恥と疑惑
幼児後期(遊戯期) 自発性 対 罪悪感
児童期(学童期) 勤勉性 対 劣等感
青年期 自我同一性の確立 対 自我同一性の拡散
初期成人期 親密性 対 孤立
成人後期 生殖性 対 停滞性
老年期(成熟期) 統合性 対 絶望・嫌悪

 エリクソンの言う心理・社会的危機は「○○ 対 ××」という表現で表されていますが、人は各発達段階において○○も××も体験します。そしてその中で××を克服して○○を獲得することができたら、エリクソンの言う「徳(Virtue)」が得られるとされています。徳は各段階によって異なっているので、詳しくは発達心理学の本などを参考にしてください。

では、ピアジェの認知についての発達段階説に話を進めます。ピアジェは人間は乳幼児の頃に循環反応という行動を取ることによって自己を知り、次いで外界を知ると考えました。循環反応とは、ある行動をするとそれに伴って感覚が生じますが、その感覚を再び感じるためにその行動を取ることを繰り返す、という繰り返しの反応のことです。たとえば新生児が腕を上げたり下げたりというように動かしているのをよく見かけると思いますが、それは筋肉の動きなどの「腕をあげた」という感覚を繰り返し味わうための循環反応だと考えられます。腕の上げ下げによって、筋肉の動きや疲労などの自分の身体の感覚を感じ、乳児は自分の身体について知っていくのです(第一次循環反応)。そしてその後1歳半ごろまでに第二次、第三次の循環反応を経て乳幼児は自己や外界を認知していきます。このように、ピアジェは人間は環境に対して能動的に働きかけることによって環境について理解していくと考え、以下のような発達段階説を唱えました。

 <ピアジェの発達段階説>
 感覚運動段階(Sensory-Motor Stage):0〜2歳
 前操作段階(Preoperational Stage):2〜7、8歳
 具体的操作段階(Concrete Operation Stage)7、8歳〜11、12歳
 形式的操作段階(Formal Operation Stage):12歳以降

 このうち形式的操作段階についてだけは、領域特殊的な視点においてとらえられているので、全ての人があらゆる領域でこの段階に達するのではなく、適性や関心のある領域においてこの段階に達し、また、個人差もあると言われています。


◆欲求の階層構造と自己実現(マズロー)
マズローは心理的な発達にともなって個人の抱く欲求も低次なものから高次なものへと分化し、階層をなして存在するようになるといっています。それは次のように五段階の階層をし下位のものからそれが充足されるとより高次な欲求を求めるようになるというのです。たしかに自己実現の欲求はすべての欲求が満たされた後になお満たされない欲求として残るものだといえるでしょう。

 自己実現の欲求(やりがいの欲求)
自尊心の欲求
愛情と所属の欲求(社会的欲求)
安全の欲求
生理的欲求





引用文献
 柳 肇ら・編 1996 パーソナリティ形成の心理学 福村出版株式会社
参考文献
 水口礼治ら・編 1989 青年期までの発達心理学 ブレーン出版
 馬場礼子ら・編 1997 ライフサイクルの臨床心理学 培風館